昭和43年9月3日 朝の御理解第53節


X御理解第53節 信心すれば、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより、知らぬおかげが多いぞ。後で考えてあれもおかげであった、これもおかげであったということが、分かるようになる。そうなれば、本当の信者じゃ。

ここんところも色々に頂いて参りましたよね。あれもおかげであった。これもおかげであったとわかるようになるとそうなれば、本当の信者じゃ。そこで、お互いせっかく信心させて頂くのでございますから、本当の信者を目指さなければならん。本当と真実の信者と書いてある。あれと言うのは過去の事。これと言うのは現実、現在のことですから、一切がおかげとわからして頂くようになれば、確かに本当の信者だと思うんですね。そういう意味でここんところを頂かして参りますとほとんど今日私はここんところを頂かして参りますと、ほとんど今日私はここんところを頂きたいと思いますね。信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多いと知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。ですから、今迄、頂いた御理解をもっと私は広く深く具体的に頂かなければならんと思うんですね。唯もう簡単にそれもおかげ、あれもおかげだと皆おかげと言うことはですね。それは、実感出けるということは、確かに本当の信者のおかげのしるしですけれども、それだけでは、やはりこのお礼に欠ける喜びがいわゆる喜べない、目に見えない所のおかげと分からしてもらうようになり、気がつかなかった所のこのようなおかげを頂いていることが分かって始めて神様のおかげというかね。お働きを頂いておる。信心するものが特別頂いておるおかげを分かることがでけて、分かるところにお礼申し上げることが出来る。昨日、久留米の佐田さんから二年目のお参りの時でしたか、先日、主人が、もう本当に神様のおかげ、神様の働きには、唯恐れ入ってしまうという話しを家族中でいたします。こういうようないわゆる目に見えたおかげですね。目に見えたおかげが本当に皆さんにも聞いてもらえる発表が出けるおかげを頂かしてもらわなきゃならん。どんなに考えても本当に神様のおかげ、言うならば、すさまじいまでの働きを唯一家の上に頂いておるが、考えて見るとあれもこれもと拾い上げていくうちにもう本当に大きな最近のおかげが4つクロ-ズアップされて来たわけですね。どんなに考えても家族中で信心のあまりなさらんおじいさんまでが、本当におかげに感服なさらんわけにはいかんようなおかげを話し合ったという話しでございましたが、これが以前茶造さんが病気をなさったときにそんなときも大変おかげを頂いておりましたが、そのときには、おかげをおかげと感知した知ったとおかげはおかげと思うておったけれどです。今にして始めてあの時のおかげの広さ深さが今にして分からして頂くとこういうのである。もういうならば、10年前のことでしょうか。北におられる時代ですから、もう10年前あの時のおかげが今にして始めて神様のおかげの深さ広さいよいよ分からしてもらった。だから、茶造さんに申しました。あなたがたが四つおかげだというとるけれども、四つ五つというもんかよ。唯環か乱だけのこっちゃ、というて、話したことですけれどね。それが又、だんだん信心を深めて行けば行く程に四つじゃあない五つじゃあない。もう本当にいよいよその深さ広さに増えていくところのです。たとえば、10年前の命を頂いたと言ったようなおかげを頂いた時以上の現在の深いおかげをおかげと感じて実感しておられるようにそれが、一家中の信心のまあエネルギ-ともなっておられるのです。けれども、確かにおかげと実感できない信心は本当に何といいますかね。相すまんというだけじゃあなくてばからしいですね。つまらん。ありがたいなあ、とその思いが例えば、私どもの一日を数えて増えて行くという一日をいよいよあらたまらなければなりません。ですから、これは佐田さんだけのことではありません。皆の一人一人の上にです。目に見えないおかげの事を思うたら、その一つずつでも分かって行くようになったら、もう唯恐れ入ってしまう。いわゆる、神様の働きと言うものをです。いわば、すさまじいまでと言うような表現しなければおられないのです。天地の働きが、私一人の上につい4~5日前までは暑い暑いというておったのが、もう毛布一枚ひっかけなければ、窓を開けよったのが、閉めたいぐらいにとても天地の働きと言うもののすさまじさをですね。そういうことの中に感じますが、そういう働きが私ども一身上の上にも、一家の上にも頂けると言うことです。人間の知恵や力ではどうにも出来ないそのことも佐田さんが昨日言うておられます。もう人間の知恵や力ではどうにも出来ないこと、あの時にたとえば、何分間か、例えば、逃げておったら、もうこのようになっていないことがある。本当に厳密に言ったら、何分間じゃあなかろう。もう何秒と言うことにもなろう。あの時に一分間時間がづれておったら、もうこのことになっていないと言うほどのこれはもう人間の知恵やら力やら計算やらで出来るこちゃあないのだ。と今にしてその佐田さん達に分かっていきよるわけです。分かれば、分かるほどだから、ありがたさと言うものが深くなってくる。その深いありがたさというものが、私どもは信心だとこう思うんですよね。信心頂いておるものの命だとこう思うんです。いわゆる、信心しておれば、一年一年ありがとうなってくるとおっしゃるが、なら10年前にあのようなおかげを受けて、そのおかげが今にして段々ありがとうなって来ておる。それは、一年一年ありがとうなって行くと言う信心をたどっていかれておられるから、ありがとうなっていきよる。ですから、お互いに信心やはりね、一年一年ありがとうなって行きよるところに、昨日の御理解じゃあないですけれども、心は信心の定義をという昨日の御理解のあのように一番むずかしいことですから、その完璧と言う完全な大変と言うことはなかなかですけれども、そこにお互い合よ、かけよと言うような働き合いというものが、足りないところは主人が主人の足りないところは家内が家内の足りないところは主人がと先生の足りないところは信者が信者が足りないところは先生がというように補いようて行くようなことも感じられます。信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多いと、たとえば、私昨日一日の事を思うて見ましてもです。神様の目に見えぬ所のおかげ働きと言うものを本当に日々のことですけれども本当にすさまじいまでに、お働きを頂いておるということを感じます。昨日私の信心の一転機とでも申しましょうかね、が来たという実感でした。もちろん、後退りするはずはありませんから、前に前進するということがです。結局私が今まだ、目に見えぬ新たな転機のことですから、どのようになっていくのやら、そりゃあ、分からないにしてもそういうことでいわば、その手がかりを又はその頂かして行かねば、前に進まれません。もう一日、昨日は心の中にその事をかけどおしにかけさせて頂いておりました。その中に次々とお参りになる。昨日は又2度も、3度も参って来たほうがありまして朝の御理解を頂きよりましたら、もう悲しゅうなったという人がいくらもあった。どうして悲しゅうなる。私自身が悲しかったら、皆さんもその悲しさが続いとるかもしれん。別におかげを受けて行くことに一つも変わりはない皆さんがおかげ受けて行くには、やっぱり、昨日一日の事をもう実に具体的に御神夢、ここにおります。修業しております。上野愛子さんとそれから門田キミ子さんがそのほうはもう実に具体的にお夢を頂いておりますですね。だから、昨日の御理解でも、あれがちょっと思いつきの唯、感情だけでお話しでも御理解でもないことが分かります。昨日の御理解を頂きながら、あのように先生は言われるのだ。けれども、本当に私の足りないところを皆さんが補のうて行ってもらわならんという時に、あのように言われるけれども、私どもはどのような信心をさせて頂いたら、よかろうかと、これはつつみキヨシさんが、御理解を頂きながら、感じた。そしたら、信心心に響いて来ること。信心を願って来い。信心を求めてこいとこう抱かれる。それがたとえば、私の信心の支えになるのぞ。昨日の様な時にはね。私の本当の支えになるのは、それより外になかったと私も実感しますね。たとえば、私が過去のなら、信心と言うものは、ちょうど今日のおかげになしておるのですから、それは、無視するわけにはいかない。だから、私の過去の信心を皆さんが頂かして下さると言うことには皆さんは何も不自由はないわけなんです。私はこれからの信心をこれから、受けて行こうと言うのであるから、だから、過去の子とはほったらかしておくと言うのではないのですからね。ですから、先生の信心を頂こう。そんなら、***というて、その思う位にせつかれたり、よりつかれたりするほど、私はうれしいのであり、ありがたいのである。これは信心を求めて行くのであるならば、そこから、私は生かされてくるのである。私はたとえば、過去の信心がです。いうなら、廃物にならず、それが廃物を****それが、利用される。生かされる。生かされてこそ私は生きるのです。結局、私を皆さんが生かして下さることによって皆さんもおかげを受ける私も生かされるわけです。私もおかげを受けるわけです。と言ったような事を頂いておられますですね。そこで、私は思うのですけれどもね。信心すれば、目に見えるおかげよりも目に見えないおかげが多い。だから、目に見えぬ。おかげとはですね。目に見えぬおかげとは私どもがね。こういうようなもの。言うなら、いろんなものと思うておったものがです。ちょうど廃物利用をするように。生かされたおかげを持って目に見えぬおかげと思うですね。こんな難儀な問題と思うておったが、その難儀な問題のおかげでこういうことが分からして、こういうおかげを受けたときにこれがはっきり目に見えたおかげになるのです。だから、目に見えぬおかげとはあれもおかげ、これもおかげとおっしゃるけれども、です。これをおかげにすると、言うことはやはり、その人によっておかげでないことにはなる。それを生かされなかったら、おかげでない。それを生かされなかったら、難儀はない。そうでしょうか。そこに生かすための精進が必要である。生かすための修業が必要なんだ。ところが、この目に見えるおかげと言うものはですね。いわゆる、どのようなすさまじいまでの神様の働きを頂いておっても、私ども凡人ではわからんのである。それが、信心を深めて行くことによってそれが少しずつでも分かって来る。それは、教祖さんの言葉を借りるなら、それは四つだけあってもこげなおかげを受けておる。まあ、分かっていかれておるように。こげなおかげを受けておる。まあ、分かっていかれておるように、大体言うなら、四つだけではないのである。けれども、四つだけは佐田さんの信心でもキャッチされたわけなんです。目に見えないところのおかげを目に見えて来たと言うわけであるですね。私はこの頃久しゅう新聞と言うものを見ない。昨日、誰かしら、私の机の上に新聞を置いてある。夕食させて頂くときにその夕食を待つ時間に新聞が置いてあるから、何気なく、聞いて見た。西日本新聞である。ここは、私のために神様が何時も書いて下さると言うところがある。大坪総一郎一人のためにここに書きなさる。例えば、新聞の見出しに本当に確かにそうなんだから。これは本当に毎日いっぺん目を通すくらいの事は目を通さなければ、神様に対して相すまんと。私は思うたんですけれども、ね。西日本の一番大きな見出しとかね。何かこりゃあ、私のために書かれていると何時も思うぐらいです。とりわけ、あの具体的なことが書いてあるのは、その日の運勢と言うのがありましょうが、一月生まれの人、二月生まれの人が、今日はこういう様にせにゃあ、と言ったような事が書いてある。私は四月生まれですから、四月と言うところは絶対私のために書かれてあると私は確信して見るんです。ところが、昨日は、どういうことが書いてあるか、そこが、目に付いた。そしたら、こういうことが書いてあった。今日の例えば、悩んでおることはね。あなたの不平不足が元である。しかも、その不平不足があまりにも高度なもの高度の所から来ておる。だから、あなたの思いを少し程度をさげられたら、どうですか、と言うような事がかいてある。程度を下げなさったら、どうですかと言うこと、私はそれを頂いてから、本当にびっくりするほど、感じました。私は前に言うように月並祭の所からです。もう、これほど繰り返し繰り返し言うても聞かせてもわからんものをそこから、だいたい始まっとるです。*しく私が繰り返し繰り返し言うても、しかも各々がおかげを受けたい、おかげを受けたいといいながら、私の言うことを聞かずして、どうしておかげを受けられるかと月並祭の前にも話した。それが、こうしてなった。そして、昨日はその御祈念になった。家族中のものの相談の会合になり、そして明くる日になり、結局わからんのは信者でもなからなければ、子供でもないとわからんのは、私だとそこに私は信心の尽度というものをおいて、これは私がもう一段と信心を高めて行かねば、進めて行かなければという。その高めて行かねば、進めて行かなければという。その高めて行かなければとならないところが、それこそ御理念、夢中的なことであった。今は私のまだ言うならば、たどったことのない道なんだから、それこそ、これから、道の世界に旅するごとに、まあ、いうなら、不安定な事であった。どこから、一歩進めて行くか、分からない。昨日の一日であった。それは、どこからか、なったきた。信心を高めることはありがたい。進めて行くことはありがたい。しかも、私は新聞を見てから、思うたこと。この方の道は喜びに喜んで開けた道とこういう。この方の道は喜びに開けた道だから、喜びには苦労させんとか、喜びに喜んで開ける道だとこうおっしゃる。それは、私はです。なら、昨日は一つの難儀から出発しようとしておる。不平不足から、次の信心を求めて行こうとしておる。これは、間違いだとこれは喜びから開けて来るもの。喜びが次の信心を開拓してくれるものでなからなければならんと、私は昨日分かった。これはもう一つ喜びで皆に不平を与えない皆も喜んでもらいながら、自分も喜びに勇んで開けて行く道を開いて行かないと嘘だと思うた。なるほど、信心に書いてある通りに不平不足がどんなに高度であっても、それはやはり、不平から不足から発足しておることに気づかして頂いて、これは程度をさげなければ、あなたの思いの程度をさげたら、どうですかと書いてある。皆さん、昨日は新聞をご覧になってそう書いてあります。もう途端に私たちの心が楽にもどった。楽になった。そういういっぱいの事を頂いてちょっと手前の所を頂くと迷わなくなった。100キロしかないものが、100グラム持つからきついのである。それをたとえば、90キロになってくると実に楽になる。楽にもならせて頂く。そして、それは、こういう数字じゃあない。それは、不平不足から、出発するのじゃあなくて、喜び喜んでのものをまず、頂いてもういっぺん出直そうと言うことになってきた。ありがたい事だなあ、信心とはありがたいと思う。なら、たとえば、その話しを聞いて頂いて例えば、目に見えぬおかげの方が多いとおっしゃる。目に見えぬおかげの本当に実をいうたら、すさまじいまでに例えば、西日本と言う新聞社を動かして私一人のためにそういう働きがあっておると言うことを感じるでしょうがね。ここは、私がもし新聞社に出向く訳じゃあなし。その易者の人を私は知っておるわけでもない。けれども、目に見えない、例えば、さまざまなその機械をたくさん使う人が使われておることをですね。感じます。そういう意味合いにおいてです。目に見えないおかげというものは、一人がおかげを頂いて行くためにどの位の人がどのくらい時間がどのくらいに使われているかわからん。そういうたら、私はそういうことが分かっていくことが、私は本当の信者にならして頂くための、そして結論としては、あれもおかげであった。これもおかげであったということは、過去の一切が生きておる、生かしておる、生かされる。それが、形になって現れる。これもおかげ、現在苦しいと思うておる。歯がゆいと思うておる。けれども、これが必ず、おかげが元になる。そう確信したら、その歯がゆいと思うておることに対してでも、どげんしていうならば、本当のおかげを気づいておることに対してでもどげんして言うならば、本当のおかげを気づいて下さってあるんだというお礼が申し上げられるんですよ、ね。そう、たとえば、又日々があれもおかげだ、これもおかげだ、それもおかげだと人は悔やんでおっしゃってもおかげと言えれるようになったら、本当の信者だとおっしゃるがです。その本当の信者のもっとそれを広く深く具体的に分からして頂くために、信心すれば、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多いと言うようなことをです。つまびらかにというわけにいかんにしても、分かって行かなければ、いけません。ただ、たったこれだけのことだけれども、これだけのために神様の働きがどのぐらい神様の手を煩わしておるだろうかと言うことである。どれくらいたくさんの人が使われておるか分からない。この人一人が助かるためにこれは大坪総一郎一人のためだけじゃあない。皆さん一人一人のためにもです。皆さんがお取り次ぎ頂いて願っておられるからには、そういう働きが必ず、あっておる。そういう働きの積み重ねがです。なるほど、子供の代より孫の代というようなです。繁盛になっていくのだなあと言うことをなおさら感じます。そこで、改めて又思われることです。お取り次ぎを頂いて出来たことは良いこと悪いことでも皆良いと言うことになるわけです。これは、高橋しろし先生のお言葉です。お取り次ぎ頂いて出来たことは良いこと悪いことでも、皆よいという結論が出るわけです。お取り次ぎを頂かず、出来たことは良いことでも悪いことでも皆悪いと言うことになってくるわけなんです。お取り次ぎ頂くにお取り次ぎ頂きよらんばってんお願いしよらんばってん、こげんもうけだしよる。おかげで教会に参りによるというても、その金庫が儲けだしよることがです。必ず、いつかはです。根があることの元になることを私どもは知らなければ、信じなければ、本当の金光様の信心になることがわからん。そこをお互い信じてです。おかげを頂かして頂かなければ、なりません。お取り次ぎ頂いて出来たこと、良いこと、悪いことでも、皆良いこと皆良いことの結果になる。それが、例えば、私の時代にならなくても必ず、子孫繁盛の元になる。それがしかし、金光様の信心って大した御信心ですよね。考えて見れば、見るほどにですから、大した信心を信心と分からしてもらい、大したものに表して頂かねば、金光大神がこの世に御出現になった意味すら、薄くなくなってくるわけですよね。もうここんところは、こういうふうに始めて53節を頂いた訳ですね。御理解53節、信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。その目に見えない所、知らなかったところを知って行くところに信心のありがたさと言うものがいよいよ深い広いものになってくる。あれもおかげであった。これもおかげであったと分かるようになる。そうなれば、本当の信心だとおっしゃるのですから、いよいよ本当の信者を目指さなければならんわけですね。どうぞ。